明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト

「明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト」へようこそ!
世の中、最近ほんとに難しい。ニュースを見ていても、心が温かくなるようなものは何もない。なんか世の中殺伐としてる。
 みんなくだらない番組を見て、憂さを晴らしてる感じですな。「騙されたら、あきません!」勉強せなあきません。
「明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト」では、皆さんにとって、元気の出る、明日が見える、あなたのサプリになるような本を紹介します。
忙しいが、毎日が疲れているあなたがちょっとでも元気になればという思いです。

2016年10月

 「獄中記」(佐藤 優著、岩波書店)
 この著作「獄中記」は、権力の中にいた人間が、「いかに権力が権力の敵を作り出し、それを葬り去るか」の手法を暴き、又自らその権力と闘い、そして権力を如何に護るべきかを綴った稀有の書である。権力の中にいた人間が権力闘争に敗れ、野に下り、権力と闘い、自分の正統性を述べた書物はある意味かなり多い。しかし、この「獄中記」のように、自らの正当性を声高に主張せず、権力がとり得るであろう手法を分析し、権力闘争の中で、彼が護るべき権力は何か、又彼が闘うべき権力は何かを冷静に見つめた著作はこの「獄中記」をおいて他は、そうざらにはない。その意味でこの「獄中記」は誰もが読むに値する著作であろう。
 著者は、元は外交官であった。それが鈴木宗男代議士とタッグを組んで、ロシア外交に取り組んでいたが、政府の謀略に陥れられ(彼によれば)、投獄される。この「獄中記」は佐藤氏の獄中での闘いを綴った512日に及ぶ日記(記録)である。
 佐藤氏がいかなる人物であるか、この本を読むまでは知らなかったし、彼が陥れられた事件がいかなるものであったかは知らない。しかし、この本からだけの受けた感想を言うと、彼を陥れた検察、国家権力はおそらく彼に対しては、及び腰であったのではないかと思われる。
 佐藤氏はずいぶん辣腕の男であったようである。おそらくかなり多くのハイレベルな知人、友人がいたであろうことは想像できる。 人のつながりは恐ろしいところがあり、特に佐藤氏の場合は、外国の高官ともつながりがあるわけで、その辺については、検察にとってもブラックボックスで、恐ろしいところだったであろう。
 立件はしたけれど、余り深く突っ込むわけにはいかず、問題の本質の入り口辺りを軽く撫でた程度で済ましたのではなかろうか。(「獄中記」の中では、匂いだけは残っている。)佐藤氏の方もその当たりはよくわかっているので、適当に検察のために落としどころをこしらえ、自分で投獄劇の脚本を作り上げた感じがある。但し検察の阿吽の呼吸の共同作業で・・。何も分かっていない人間がこういうことを言うのはおこがましいが・・。
 私は著者は「獄中記」の中で、まだ決して本音を語っていないと思うし語る必要もないだろう。彼は護るべきものを残しながら、何時それを出すべきかのチャンスを狙っているように思う。案外、それを明らかにする時は、日本が本当に危機に瀕した時なのかもしれない。そんな気がする。何かを期待させるものを持っている。それが例え遅すぎたとしても!
 「獄中記」の中で、彼が自ら言うように、佐藤氏は保守的な人間である。野にあってシュプレヒコールする人間ではない。人々を組織し、大衆を導く指導者のタイプでもなかった。私は思うに、彼の思いは権力の中にあって、権力を動かし、政治を行う、或いはその補佐を行うことにあったのではなかろうか。それも、指導者ではなく、参謀として。私は、彼のマキャバリズム的な発想にある種の怖さを見た。そう考えると、彼が失脚することで、自らをリセットし直す機会を得たのは、長い目で見るとむしろ彼にとって幸せであったのではなかろうか。
 最後に、「獄中記」たった1作を読んだだけで、あれこれ分かった風なことを書いて申し訳ないが、これから慌てずに勉強させていただきたい。ただ私に残された時間は、そんなに多くないので、彼に願うのは「余り多くを語らず。要所要所でぐっと全体に響くことを言っていただきたい」というのが本音だ。身勝手なのは分かっているが・・。
         

 この書を読むきっかけになったのは、つい3,4日前の新聞広告に小池東京都知事の写真入で、「東京都は失敗するわけには行きません」というキャッチコピーでこの本の宣伝がされているのを見てからである。東京都で何が起こっているのかを知りたかった。
 この本はノモンハン事件、ミッドウエー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦の6つの作戦や海戦を分析的に後付したものである。
 この種の本は本来ならば何か胡散臭さを感じるが、余りにタイミングがよく読んでしまった。つまり、今の世の中はどうもおかしいぞ、これはこのもまま行けば再び戦争になるのでは、いや戦争するまでもなく、3流国になり下がってしまうのではないかという恐れが、かなりしっかりした確信となっていたからである。
 そして結論から言うと、この本は面白い。全ての日本人にこの本を読んでほしい。
 司馬遼太郎は「日本人は日露戦争から成長していない。」といっていたが、その通りだと思う。第2次世界大戦も、今もほとんど変わっていない。国の成り立ちも変わっていない。民主国家となったというが、人々特に官僚の頭の構造は全くといっていいほど変わっていない。
 「戦後になっても、戦争の教訓はほとんど払拭されずに、その流れは今の世の中の地下水流となって脈々と流れているのだ。そして、それは福島の原発事故、東京都の豊洲市場問題などに、まるで「液状化現象」のごとく地上に噴出しているのだ」と実感できた。
   ここで指摘された失敗の本質は、日本人特有のある意味民族性ともいえる事柄に端を発していると思える。
 また、あらゆることが、「天皇陛下」の一言で、問答無用となって、思考が止まってしまったといってよい。
  • ものの見方が短期的である
  • 発想が貧弱である
  • 人のいうことを聞かない
  • 必要以上に情緒的である
  • 人にわかりやすく説明しようとしない 等々
 これらのことは、自分にも当てはまることが多い。昔軍人や官僚が犯した過ちは、特別な人間の過ちではない。普通のおっさんの犯す過ちだと思う。
 いいたいのは、私達一人ひとりが、賢くならないと、又同じ過ちを繰り返すと思う。今度間違えば3度目になる。
 かの責任者たちは、おそらく嘯くであろう。「お前達に言われる筋合いはない。我々は命を懸けて戦ったのだ。批判は後付で何とでもできる」と。
 しかし、それでも、死者に鞭打ってでも国としてやらねばならない。日本人は余りに個人の情を重きに置きすぎる。これらの責任は一人や二人の割腹自殺では取れるものではない。「俺が腹を切るから」「命を賭してがんばる」などという訳の分からない言葉にもう二度と騙されてはならない。

「恍惚の人」(有吉佐和子著、新潮社、昭和47年刊)

 本棚に色あせた古い本を見つけた。私の学生時代に読んで、ある意味衝撃を受けた。「恍惚の人」(有吉佐和子著、新潮社、昭和47年刊)である。本の紙は黄色くなり、カバーは色あせている。しかし、ざーと読み直してみて、その書かれている内容は決して色あせてはいないし、今尚燦然と輝いているように思うのだが。その当時はまだ若かったが、いつか自分もそうなるのではないかという漫然とした恐れが心の片隅に沈殿していたのは事実だ。

 「恍惚の人」はベストセラーとして世に迎えられたが、文壇からは「あんなもの小説じゃない」との声や、丹羽文雄の『嫌がらせの年齢』には及ばないなどの批評があがるなど、文学界から冷遇を受け、有吉はショックを受けた。さらに印税1億円を寄付しようとしたところ多額の贈与税を課されることが分かり、有吉は新聞広告を打ってその不合理を訴えた。

 仕事を抱えながら自分が茂造の面倒をほぼ一手に見ることについて、嫁の昭子が不満を抱くけれども、それに耐え抜いた女性の芯の強さが描かれている。 今の世であれば、こうはならないであろうと思った。それは30数年前は全て女性にかぶせてしまって平然としていた世の中の風土が今では少し変わってきているのかもしれないことの反映だと思う。

 インターネットでは、「また認知症になった茂造が不可解な「他者」として描かれ、その内面心理の動きに全く関心が払われないところは、現在の認知症介護の観点からすると問題を含むであろう。」というコメントもあるが、これは今だから言える話であって、認知症という症状を本人が認識できるようになったのは、ごく最近のことではないだろうか。
 この小説の題である「恍惚」という言葉で初めて?そのような人がいるということを世間の人に認識させたのであって、それから後も、ぼけ、痴呆症など用語自体も定まっていなかった。
 今は予備軍も含めると認知症が疑われる人々が、回りに満ち溢れていて、きちんと向き合わざるを得ない時代に突入している。
 この小説が世に出て、20数年して、「自己責任」という言葉が聴かれるようになった。認知症になったことは、自己責任かもしれないが、1千万人の人が街に溢れる状況での放置・放任は、単なる自己責任では許されない。

 つい先日インターネットで面白い投稿を見た。それは、Wiredというサイトで、「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」とTitleの投稿で、私も常々同じような疑問を持っていたので早速拝見させていただいた。曰く、
 「電子書籍には、紙の本にはかなわない(少なくとも、簡単にはかなわない)側面が、まだいくつかある。逆にいえば、以下の5つの問題が解決されさえすれば、電子書籍は制限なく成長していくことだろう」というものであった。その5つの問題とはいったいなんだろう。投稿の著者はその5つの問題を下記の通りとしている。
1) 読了へのプレッシャーがない。
2) 購入した本を1カ所にまとめられない。
3) 思考を助ける「余白への書き込み」ができない。
4) 位置づけとしては使い捨てなのに、価格がそうなっていない。
5) インテリア・デザインにならない。
 確かにどれもこれも理由としてうなずけるものばかりで、また自分に照らしても思い当たる節があるものばかりである。
 タブレットやパソコンに何百冊、何千冊入っておろうと、それでもってかさばる訳ではない。つまり片付かないとか、目ざわりということがない。つまりタブレットやスマホの中に図書館を持って歩いているようなもので、これはタブレットやスマホの裏を返せば利点でもある。
しかしよくよく考えてみると、人間一人が図書館の本を全て読めるわけでもないし、その必要もない。ましてや図書館を持って歩く必要などどこにもないわけだ。 さて本題だが、
 1)については、要は読む側がその本をどこまで必要としているかにかかっている。もしさほど必要なければ、いくら紙の本といえども「積ん読」になってしまう。
 2)については、本の整理がつかないということである。本は目に見えるわけでもないし、物理的に整理できるわけではない。この実に目に訴えないということはややこしい問題を引き起こす。つまり目に見えていないので抽象的になる。
 3)はこれまた由々しい問題なのである。余白に書き込めるということは頭の整理にもなる、内容の確認にもなる。確かに本を読む側からすると少し不便。ノートを取るなど回避策はあるが、ノートとタブレットの2つ管理しなければならない。
4)、5)は本質的な問題ではない。  以上のことをまとめると紙であろうとデジタル情報であろうとさしたる差異はないということになる。

 しかし、それでも私は決定的な違いがあると思う。それは「存在感」である。
 本や紙であれば、そこにどんな情報があるか分かる。しかし一方、タブレットやスマホなら現物があるのは見えるがどんな情報かは分からない。
 本や紙なら1ペ-ジを読み終わっても隣のページがまだ視野の中にあったりする。ところがデジタルな情報であれば連続性はなく、ページをめくると完全に視野から消えてなくなる。これは読む側にとっては大問題となる。  以上から、じっくりと考察しながら、吟味して読むものはやはり紙の方がいい。だが、マンガやライトノベルのようなものは電子書籍が向いていると思うのだが。

本や電子書籍のおすすめサイト 「日本沈没」(小松左京、小学館文庫)

 東北大震災以来、まるではやり言葉のように、何度も耳にする言葉は「想定外」である。私にとってこの言葉は、本当に「想定外」だったというより、自らの責任を逃れるための方便にしか聞こえない。
 この「日本沈没 第1部」に登場する科学者たちは(敢て一部の学者と言うが)日本のはるか南の海上に起こったわずかな変動を見逃さず、追求し続け、ついにあり得ない全くの想定外の「日本沈没」という現象を、完全に「想定内の現象」という認識に到達してしまった。そして、その想定しきったことに対し、日本の政府が国民に与える動揺を極力抑えつつ、密かに準備を進めていく。準備と言っても、1億2千万の人間を日本から脱出させる作業である。その苦難に満ちた過程が第1部である。この作品の作者は、この時(1973年)は日本の政府の機能や官僚に対して一定の評価と期待を抱いていたように思える。そしてそれが、当時の日本の世論を代弁していたとも言える。
 ところがそれから40年後、まったく別の作品ではあるが、「亡国記」に出てくる政府高官と官僚たちは国民を見捨てて逃げ去る卑怯者集団として描かれている。作者の世界観の違いといえばそれまでだが、これが世論の一定の反映の結果とすれば、自ずと面白いものが見えてくる。
 二つの作品を読んで感じることは、「想定外」を作らないようにすることである。
 それでも「想定外」のことが起こってしまう。いや自然の力の大きさにはその想定すら許さない。まるで人間の浅はかさをあざ笑うが如しである。 しかしそれでも尚、想定をしなければならない。「想定外」を「想定内」としなければならない。 
 田所博士はいう。「自分の行動のよりどころはカンだ。」 この確かなデータと見識に基づく、「カン」こそが。今なにより、必要とされているのかもしれない。 「○○村に住む人々」は分かりきったデーターを弄繰り回して、人々に科学的装い?をこらして、分かりにくく説明する。自分が如何に高度な知識を持っているかを装うために。人間そろそろ自分自身に目覚めてもいい頃ではないだろうか。この作品「日本沈没」の著者は、全ての人々に自分の頭で想定をすることを要求する。それが人間というものである。
 物語の始まりは、南海の小さな島がある日忽然と姿を消してしまったことから始まる。これをきっかけとするかのように大きな地震や富士山の爆発が日本列島を襲う。田所博士はこの自然現象の発生にただならぬものを感じ、もう一人の主人公である海底調査船の操縦士の小野寺と共に全貌の把握に全精力を傾ける。次第に明らかになって来たのは、日本が沈没するかもしれないという地殻の大変動であった。
 この迫りくる未曾有の事態をうけ政府は、日本人全員を海外に非難させるべく、世界各国と極秘の交渉に入った。小野寺は極秘プロジェクトから離れ、恋人共に国外に逃れようとする寸前、牙を向いた富士山や地殻変動に巻き込まれてしまう。田所は想定外を想定外とせず警告を鳴らし、人々にその危険を知らしめようとするが、奇人扱いをされる。
 第一部は沈み行く日本列島から逃げ延びた人々、逃げ遅れ海の底に沈んだ人々を空前のスケールで描く。
 そして言いたいのは、このように「日本人が日本人でなくなる」こと起こりうるのは、単なる自然現象によるものだけではなく、経済的、政治的、戦争、テロ、事故などの人為的な原因によっても、起こりうることである。世界中カオスと化している。何が起こって不思議ではない時代に生きている。我々は!
 この「日本沈没」は非情で非常な現実性と導きを我々に示唆するSF小説である。これは、SFではない。Non Fictionだ。
 そして、そこから、真摯に現実を見つめる姿をくみ取ることが出来れば、日本にもまだ救いがある。


↑このページのトップヘ