本や電子書籍のおすすめサイト 「日本沈没」(小松左京、小学館文庫)

 東北大震災以来、まるではやり言葉のように、何度も耳にする言葉は「想定外」である。私にとってこの言葉は、本当に「想定外」だったというより、自らの責任を逃れるための方便にしか聞こえない。
 この「日本沈没 第1部」に登場する科学者たちは(敢て一部の学者と言うが)日本のはるか南の海上に起こったわずかな変動を見逃さず、追求し続け、ついにあり得ない全くの想定外の「日本沈没」という現象を、完全に「想定内の現象」という認識に到達してしまった。そして、その想定しきったことに対し、日本の政府が国民に与える動揺を極力抑えつつ、密かに準備を進めていく。準備と言っても、1億2千万の人間を日本から脱出させる作業である。その苦難に満ちた過程が第1部である。この作品の作者は、この時(1973年)は日本の政府の機能や官僚に対して一定の評価と期待を抱いていたように思える。そしてそれが、当時の日本の世論を代弁していたとも言える。
 ところがそれから40年後、まったく別の作品ではあるが、「亡国記」に出てくる政府高官と官僚たちは国民を見捨てて逃げ去る卑怯者集団として描かれている。作者の世界観の違いといえばそれまでだが、これが世論の一定の反映の結果とすれば、自ずと面白いものが見えてくる。
 二つの作品を読んで感じることは、「想定外」を作らないようにすることである。
 それでも「想定外」のことが起こってしまう。いや自然の力の大きさにはその想定すら許さない。まるで人間の浅はかさをあざ笑うが如しである。 しかしそれでも尚、想定をしなければならない。「想定外」を「想定内」としなければならない。 
 田所博士はいう。「自分の行動のよりどころはカンだ。」 この確かなデータと見識に基づく、「カン」こそが。今なにより、必要とされているのかもしれない。 「○○村に住む人々」は分かりきったデーターを弄繰り回して、人々に科学的装い?をこらして、分かりにくく説明する。自分が如何に高度な知識を持っているかを装うために。人間そろそろ自分自身に目覚めてもいい頃ではないだろうか。この作品「日本沈没」の著者は、全ての人々に自分の頭で想定をすることを要求する。それが人間というものである。
 物語の始まりは、南海の小さな島がある日忽然と姿を消してしまったことから始まる。これをきっかけとするかのように大きな地震や富士山の爆発が日本列島を襲う。田所博士はこの自然現象の発生にただならぬものを感じ、もう一人の主人公である海底調査船の操縦士の小野寺と共に全貌の把握に全精力を傾ける。次第に明らかになって来たのは、日本が沈没するかもしれないという地殻の大変動であった。
 この迫りくる未曾有の事態をうけ政府は、日本人全員を海外に非難させるべく、世界各国と極秘の交渉に入った。小野寺は極秘プロジェクトから離れ、恋人共に国外に逃れようとする寸前、牙を向いた富士山や地殻変動に巻き込まれてしまう。田所は想定外を想定外とせず警告を鳴らし、人々にその危険を知らしめようとするが、奇人扱いをされる。
 第一部は沈み行く日本列島から逃げ延びた人々、逃げ遅れ海の底に沈んだ人々を空前のスケールで描く。
 そして言いたいのは、このように「日本人が日本人でなくなる」こと起こりうるのは、単なる自然現象によるものだけではなく、経済的、政治的、戦争、テロ、事故などの人為的な原因によっても、起こりうることである。世界中カオスと化している。何が起こって不思議ではない時代に生きている。我々は!
 この「日本沈没」は非情で非常な現実性と導きを我々に示唆するSF小説である。これは、SFではない。Non Fictionだ。
 そして、そこから、真摯に現実を見つめる姿をくみ取ることが出来れば、日本にもまだ救いがある。