「恍惚の人」(有吉佐和子著、新潮社、昭和47年刊)

 本棚に色あせた古い本を見つけた。私の学生時代に読んで、ある意味衝撃を受けた。「恍惚の人」(有吉佐和子著、新潮社、昭和47年刊)である。本の紙は黄色くなり、カバーは色あせている。しかし、ざーと読み直してみて、その書かれている内容は決して色あせてはいないし、今尚燦然と輝いているように思うのだが。その当時はまだ若かったが、いつか自分もそうなるのではないかという漫然とした恐れが心の片隅に沈殿していたのは事実だ。

 「恍惚の人」はベストセラーとして世に迎えられたが、文壇からは「あんなもの小説じゃない」との声や、丹羽文雄の『嫌がらせの年齢』には及ばないなどの批評があがるなど、文学界から冷遇を受け、有吉はショックを受けた。さらに印税1億円を寄付しようとしたところ多額の贈与税を課されることが分かり、有吉は新聞広告を打ってその不合理を訴えた。

 仕事を抱えながら自分が茂造の面倒をほぼ一手に見ることについて、嫁の昭子が不満を抱くけれども、それに耐え抜いた女性の芯の強さが描かれている。 今の世であれば、こうはならないであろうと思った。それは30数年前は全て女性にかぶせてしまって平然としていた世の中の風土が今では少し変わってきているのかもしれないことの反映だと思う。

 インターネットでは、「また認知症になった茂造が不可解な「他者」として描かれ、その内面心理の動きに全く関心が払われないところは、現在の認知症介護の観点からすると問題を含むであろう。」というコメントもあるが、これは今だから言える話であって、認知症という症状を本人が認識できるようになったのは、ごく最近のことではないだろうか。
 この小説の題である「恍惚」という言葉で初めて?そのような人がいるということを世間の人に認識させたのであって、それから後も、ぼけ、痴呆症など用語自体も定まっていなかった。
 今は予備軍も含めると認知症が疑われる人々が、回りに満ち溢れていて、きちんと向き合わざるを得ない時代に突入している。
 この小説が世に出て、20数年して、「自己責任」という言葉が聴かれるようになった。認知症になったことは、自己責任かもしれないが、1千万人の人が街に溢れる状況での放置・放任は、単なる自己責任では許されない。