明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト

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世の中、最近ほんとに難しい。ニュースを見ていても、心が温かくなるようなものは何もない。なんか世の中殺伐としてる。
 みんなくだらない番組を見て、憂さを晴らしてる感じですな。「騙されたら、あきません!」勉強せなあきません。
「明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト」では、皆さんにとって、元気の出る、明日が見える、あなたのサプリになるような本を紹介します。
忙しいが、毎日が疲れているあなたがちょっとでも元気になればという思いです。

カテゴリ: 書評

アメリカにおけるデモクラシーについて
  (トクヴィル著、岩永健吉郎訳、中公クラシックス)

 先のアメリカ大統領選挙の結果は、トランプ氏の是非うんぬんよりも、アメリカのマスメディアの予測と余りにかけ離れていたことにショックを受けた。本当に読み違えたのか、わざと読み違えたのか?なんとしても知りたい。アメリカ人がいったい何を考え投票したのかを知りたく、この多少古臭い本を読んだ。

 本書はフランスの没落貴族の家の出のトクヴィルが、1835年に著したアメリカ見聞記だ。といえ、普通の旅行記とは違って、中味はガチガチの民主主義論だ。1827年の7月革命等を経て、時代が大きく変わりつつあった。その中で、民主主義という概念が、アメリカでどのようにあらわれているかを書いたもので、読んでそんなに楽しいものではない。1831年の9ヶ月間の視察で、アメリカの行政制度の中で、「民主主義」を分析し、その独自性、特殊性を炙り出したものである。
 彼は、没落した貴族といえ高潔で、優れた鑑識能力を持っていた。当時としては、珍しく民主的で、先進的な貴族だったろう。
 しかし、彼の認識が時代的制約から逃れることは出来てなかったのは、仕方がないことだろう。
 彼の著作の中に出てくるアメリカ人とはすべて白人であり、その中には奴隷、黒人、インデアン等は出てこない。 勿論当時、このような人々は「アメリカ人」とすら認められてなかっただろうから、彼の頭の中から抜け落ちていても彼を攻めることは出来ない。
 そこで、我々が彼の著作を読むとき、彼のいう「民主主義」は、アメリカの征服者社会の中における民主主義であって、今日的な意味での民主主義ではないことを明記せねばならない。

 もう一つ彼は著作の中で、「人民による多数決は専制支配を生む。その支配が必ずしも、人類的な要求に適うものとは限らない」としているが、この部分については実に卓見で、今の日本でも十分考慮すべき見解であることからも、トクヴィルの評価を一面的にしてはならないと考えている。
 その上で、彼はアメリカの民主政(民主制)を「ヨーロッパにおける権力の尺度はくつがえされ、富めるものはヨーロッパの貧しきものの地位にある。・・民主政の真の長所は全ての人の利益を保障するにある、と主張されたことがあるけれども、そうではなくて、最大多数の利益を保護しうるという点にしかない。そこで、貧者が政治をする合衆国では、富者はその権力が自分達に対して乱用されはしないかと常に心配しなければならない」 と述べている。
その当時はトクヴィルが見たように、「貧者が政治をしていた」のかもしれない。そして、「最大多数の利益を保護しうる」ように機能していたのかもしれない。しかし今では「貧者は政治をしていないが、政治に参加しているつもりになっている」のではないかと。そして「富者はその権力が自分達に対して乱用されはしないか」という富者の怖れを、依然として強く抱いたままである。
 私はアメリカ人が考えている、民主主義を標榜する民主政に対する認識は、このトクヴィルが観察したレベルからいささかも発達していない、つまり昔のままのではないかと考える。富者も貧者も共に。
 この訳本に寄せて、高山裕二という方が「奇妙なリベラリズム?無力な個人の生きる術」という論文を寄せているが、その中に「マルクスに代わってトクヴィルへとさえ言われることがある。」と今の風潮を述べておられるが、もしこの風潮が事実とすれば、先の見解をあわせ、アメリカの大統領選挙を報じたマスメディアの誤謬を生んだ原因が正にこの点にあったのではないかと考える。

 論理が飛躍しているかのように思われるのも心外なので、少し説明をしておこう。
 新自由主義の経済政策の結果、貧富の差が増大し、貧困層(今回の場合、特にアメリカ社会の中で優位に立っているはずの白人のインテリ層)に生活苦と不満と不安が広がっていた。そしてその矛盾による社会的不満はアメリカの富裕層の人々もよく知っていた。アメリカの支配層はその不満を解消する必要に迫られていた。
 そこで支配層は「貧者が政治をする合衆国では、民主政の真の長所は最大多数の利益を保護しうるという点にある」と考えるアメリカ(アメリカ人)の弱点を逆手にとって、自分達が慰撫すべき階層の人々に、「君達の苦境の原因は、メキシコ移民であり、後進国の人々であり、アメリカが一方的に護っている日本である。だから強いアメリカを護るためには、関税障壁を設け、アメリカを最優先し、移民は強制的に排除し、同盟国にはアメリカ軍の軍事費負担を求めなければならない。アメリカ人(彼らの頭の中には、開拓時代にアメリカに渡ってきた移民とその子孫しかない)のための強いアメリカを」とキャンペーンを展開し、その結果トランプ氏を勝利させた。
   一方アメリカの支配者は、現在の経済及び支配体制の行き詰まりが、新自由主義の行き着いた先であることを理解しながら、是正策をマルクス以外に求めようとした。その結果トクヴィルや、トマ・ピケッティなどのマルクス以外(マルクスでなければ何でもいい)に解を求めたというのが真相であろう。
 マスメディアは、社会の起こった変化を忠実に、真剣に見ることから眼を背け、「自分達の希望的観測」だけに大衆の関心が集まるように操作し、選挙戦の枠内だけで、報道し続けた結果、トランプ側(アメリカの支配層)の思惑通りの結果を招いた。
 以上が私が今回の大統領選挙で、アメリカのマスメディアが侵した過ちは、決して「クリントンとトランプの読み間違いなどではなく、真の過ち(犯罪)は「アメリカ国民の最も根源的な矛盾からアメリカ人の目を逸らすよう誘導したこと」だと思う。最も根源的な矛盾とは、アメリカの現実はもはや開拓時代のアメリカとは違っており、民主制も全く変質してしまっているにも拘らず、アメリカ人は未だに昔のアメリカを夢見続けているという矛盾である。
 以上の考察に私が達したのは、この博物館行きのトクヴィルの「アメリカにおけるデモクラシーについて」のお陰である。 時代のギャップを考慮して読むなら、それなりに面白い本と思う。

 そしてこの本が世に現れて約30年後に、アメリカで南北戦争が起こっていることを考えてみるのも、又一興ではないだろうか。

   


 

「トランプ化」するアメリカ VoiceS (日高義樹著、PHP研究所)

 11月10日のアメリカ大統領選挙の結果は全世界に衝撃を与えた。わたしも衝撃を受けた一人である。その理由は、トランプのような人物が大統領に成るはずがないと思い込んでいたからである。またアメリカの支配層といわれる人々も、トランプは応援していないという報道を信じ切っていたからである。
 
 ところがいざふたを開けてみると中間報告で、最終集計ではないが、トランプ氏279票:クリントン氏が228票というかなりの大差でトランプ氏が選挙戦を制した。ところが得票数で見るとトランプ氏59,611,678 票 に対しクリントン氏59,814,018 票とクリントン氏が逆にトランプ氏を上回っている。これが小選挙区制の理不尽なところであると思うが・・。また、アメリカのマスコミはいったいアメリカの世相をどう見ていたのか。彼らの報道と現実の食い違いに違和感すら覚えた。
 さて前置きはさておき、表題の本である「トランプ化するアメリカ」を電子書籍で今年の半ばに読んだが、内容的には大きく分けて3つに分かれる。その第1は、今回のアメリカ大統領選を巡って、トランプ氏とクリントン氏がそれぞれどう見られているか、どのようなポジションについているか?であり、第2は、アメリカの国内の状況で、内部的な状況の紹介である。そして3つ目は、アメリカの国際的な位置づけを分析したものである。
 第1の部分では、著者はトランプ氏とクリントン氏の双方が、アメリカ国民にとって、それほど望ましい候補者とは思われていないということ、両候補ともアメリカ国民にとって「決まりの悪い存在」として見られているということが述べられている。そしてこの見方というのは、投票日まで決して揺らぐことなく続いたと言え、著者の日高義樹のの見方は正しかったといえる。
 第2に部分について、現在のアメリカの政治が「異常にねじ曲がって」いて、これまでもアメリカの政治の振り子が片方に振れすぎることがあったが、新しく登場した大統領がその振り子を逆方向に戻すのが常であったが。オバマ大統領はそれを戻すことなく任期を終わってしまった。アメリカ人は「アメリカ政治がうまく機能していない」という認識をトランプ、クリントン支持者共に持っている中で、今回の大統領選挙が闘われたが、大統領選は結局それを修復する方向に向かわず、「アメリカをよりひどい分裂と混乱に陥れている」と分析していた。結局この分析も著者の正しさを証明することとなった。
 第3に部分では、北朝鮮の核開発、プーチン大統領の世界戦略、中東問題、対中国問題などから、2016年以降新しい大統領の下で「アメリカのトランプ化というべき深刻な分裂、北朝鮮やロシアの核戦力の強化、中東の地獄の釜のそこが抜けたような収拾のつかない大混乱、中国の経済的発展の終焉などから、これまでにない大きな変化の時代になる」と予測している。
 
 本書はきわめて短い著作ながら、アメリカ大統領選挙の意味づけ、これからの課題、世界情勢の変化などを的確に指摘した優れた著作だといえる。筆者が何よりも言いたいのは、著者の指摘の正しさが、大統領選挙で現実に証明されたものとして、今こそ誰しも読んでおくべき本といえるだろう。 






 「獄中記」(佐藤 優著、岩波書店)
 この著作「獄中記」は、権力の中にいた人間が、「いかに権力が権力の敵を作り出し、それを葬り去るか」の手法を暴き、又自らその権力と闘い、そして権力を如何に護るべきかを綴った稀有の書である。権力の中にいた人間が権力闘争に敗れ、野に下り、権力と闘い、自分の正統性を述べた書物はある意味かなり多い。しかし、この「獄中記」のように、自らの正当性を声高に主張せず、権力がとり得るであろう手法を分析し、権力闘争の中で、彼が護るべき権力は何か、又彼が闘うべき権力は何かを冷静に見つめた著作はこの「獄中記」をおいて他は、そうざらにはない。その意味でこの「獄中記」は誰もが読むに値する著作であろう。
 著者は、元は外交官であった。それが鈴木宗男代議士とタッグを組んで、ロシア外交に取り組んでいたが、政府の謀略に陥れられ(彼によれば)、投獄される。この「獄中記」は佐藤氏の獄中での闘いを綴った512日に及ぶ日記(記録)である。
 佐藤氏がいかなる人物であるか、この本を読むまでは知らなかったし、彼が陥れられた事件がいかなるものであったかは知らない。しかし、この本からだけの受けた感想を言うと、彼を陥れた検察、国家権力はおそらく彼に対しては、及び腰であったのではないかと思われる。
 佐藤氏はずいぶん辣腕の男であったようである。おそらくかなり多くのハイレベルな知人、友人がいたであろうことは想像できる。 人のつながりは恐ろしいところがあり、特に佐藤氏の場合は、外国の高官ともつながりがあるわけで、その辺については、検察にとってもブラックボックスで、恐ろしいところだったであろう。
 立件はしたけれど、余り深く突っ込むわけにはいかず、問題の本質の入り口辺りを軽く撫でた程度で済ましたのではなかろうか。(「獄中記」の中では、匂いだけは残っている。)佐藤氏の方もその当たりはよくわかっているので、適当に検察のために落としどころをこしらえ、自分で投獄劇の脚本を作り上げた感じがある。但し検察の阿吽の呼吸の共同作業で・・。何も分かっていない人間がこういうことを言うのはおこがましいが・・。
 私は著者は「獄中記」の中で、まだ決して本音を語っていないと思うし語る必要もないだろう。彼は護るべきものを残しながら、何時それを出すべきかのチャンスを狙っているように思う。案外、それを明らかにする時は、日本が本当に危機に瀕した時なのかもしれない。そんな気がする。何かを期待させるものを持っている。それが例え遅すぎたとしても!
 「獄中記」の中で、彼が自ら言うように、佐藤氏は保守的な人間である。野にあってシュプレヒコールする人間ではない。人々を組織し、大衆を導く指導者のタイプでもなかった。私は思うに、彼の思いは権力の中にあって、権力を動かし、政治を行う、或いはその補佐を行うことにあったのではなかろうか。それも、指導者ではなく、参謀として。私は、彼のマキャバリズム的な発想にある種の怖さを見た。そう考えると、彼が失脚することで、自らをリセットし直す機会を得たのは、長い目で見るとむしろ彼にとって幸せであったのではなかろうか。
 最後に、「獄中記」たった1作を読んだだけで、あれこれ分かった風なことを書いて申し訳ないが、これから慌てずに勉強させていただきたい。ただ私に残された時間は、そんなに多くないので、彼に願うのは「余り多くを語らず。要所要所でぐっと全体に響くことを言っていただきたい」というのが本音だ。身勝手なのは分かっているが・・。
         

 この書を読むきっかけになったのは、つい3,4日前の新聞広告に小池東京都知事の写真入で、「東京都は失敗するわけには行きません」というキャッチコピーでこの本の宣伝がされているのを見てからである。東京都で何が起こっているのかを知りたかった。
 この本はノモンハン事件、ミッドウエー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦の6つの作戦や海戦を分析的に後付したものである。
 この種の本は本来ならば何か胡散臭さを感じるが、余りにタイミングがよく読んでしまった。つまり、今の世の中はどうもおかしいぞ、これはこのもまま行けば再び戦争になるのでは、いや戦争するまでもなく、3流国になり下がってしまうのではないかという恐れが、かなりしっかりした確信となっていたからである。
 そして結論から言うと、この本は面白い。全ての日本人にこの本を読んでほしい。
 司馬遼太郎は「日本人は日露戦争から成長していない。」といっていたが、その通りだと思う。第2次世界大戦も、今もほとんど変わっていない。国の成り立ちも変わっていない。民主国家となったというが、人々特に官僚の頭の構造は全くといっていいほど変わっていない。
 「戦後になっても、戦争の教訓はほとんど払拭されずに、その流れは今の世の中の地下水流となって脈々と流れているのだ。そして、それは福島の原発事故、東京都の豊洲市場問題などに、まるで「液状化現象」のごとく地上に噴出しているのだ」と実感できた。
   ここで指摘された失敗の本質は、日本人特有のある意味民族性ともいえる事柄に端を発していると思える。
 また、あらゆることが、「天皇陛下」の一言で、問答無用となって、思考が止まってしまったといってよい。
  • ものの見方が短期的である
  • 発想が貧弱である
  • 人のいうことを聞かない
  • 必要以上に情緒的である
  • 人にわかりやすく説明しようとしない 等々
 これらのことは、自分にも当てはまることが多い。昔軍人や官僚が犯した過ちは、特別な人間の過ちではない。普通のおっさんの犯す過ちだと思う。
 いいたいのは、私達一人ひとりが、賢くならないと、又同じ過ちを繰り返すと思う。今度間違えば3度目になる。
 かの責任者たちは、おそらく嘯くであろう。「お前達に言われる筋合いはない。我々は命を懸けて戦ったのだ。批判は後付で何とでもできる」と。
 しかし、それでも、死者に鞭打ってでも国としてやらねばならない。日本人は余りに個人の情を重きに置きすぎる。これらの責任は一人や二人の割腹自殺では取れるものではない。「俺が腹を切るから」「命を賭してがんばる」などという訳の分からない言葉にもう二度と騙されてはならない。

本や電子書籍のおすすめサイト 「日本沈没」(小松左京、小学館文庫)

 東北大震災以来、まるではやり言葉のように、何度も耳にする言葉は「想定外」である。私にとってこの言葉は、本当に「想定外」だったというより、自らの責任を逃れるための方便にしか聞こえない。
 この「日本沈没 第1部」に登場する科学者たちは(敢て一部の学者と言うが)日本のはるか南の海上に起こったわずかな変動を見逃さず、追求し続け、ついにあり得ない全くの想定外の「日本沈没」という現象を、完全に「想定内の現象」という認識に到達してしまった。そして、その想定しきったことに対し、日本の政府が国民に与える動揺を極力抑えつつ、密かに準備を進めていく。準備と言っても、1億2千万の人間を日本から脱出させる作業である。その苦難に満ちた過程が第1部である。この作品の作者は、この時(1973年)は日本の政府の機能や官僚に対して一定の評価と期待を抱いていたように思える。そしてそれが、当時の日本の世論を代弁していたとも言える。
 ところがそれから40年後、まったく別の作品ではあるが、「亡国記」に出てくる政府高官と官僚たちは国民を見捨てて逃げ去る卑怯者集団として描かれている。作者の世界観の違いといえばそれまでだが、これが世論の一定の反映の結果とすれば、自ずと面白いものが見えてくる。
 二つの作品を読んで感じることは、「想定外」を作らないようにすることである。
 それでも「想定外」のことが起こってしまう。いや自然の力の大きさにはその想定すら許さない。まるで人間の浅はかさをあざ笑うが如しである。 しかしそれでも尚、想定をしなければならない。「想定外」を「想定内」としなければならない。 
 田所博士はいう。「自分の行動のよりどころはカンだ。」 この確かなデータと見識に基づく、「カン」こそが。今なにより、必要とされているのかもしれない。 「○○村に住む人々」は分かりきったデーターを弄繰り回して、人々に科学的装い?をこらして、分かりにくく説明する。自分が如何に高度な知識を持っているかを装うために。人間そろそろ自分自身に目覚めてもいい頃ではないだろうか。この作品「日本沈没」の著者は、全ての人々に自分の頭で想定をすることを要求する。それが人間というものである。
 物語の始まりは、南海の小さな島がある日忽然と姿を消してしまったことから始まる。これをきっかけとするかのように大きな地震や富士山の爆発が日本列島を襲う。田所博士はこの自然現象の発生にただならぬものを感じ、もう一人の主人公である海底調査船の操縦士の小野寺と共に全貌の把握に全精力を傾ける。次第に明らかになって来たのは、日本が沈没するかもしれないという地殻の大変動であった。
 この迫りくる未曾有の事態をうけ政府は、日本人全員を海外に非難させるべく、世界各国と極秘の交渉に入った。小野寺は極秘プロジェクトから離れ、恋人共に国外に逃れようとする寸前、牙を向いた富士山や地殻変動に巻き込まれてしまう。田所は想定外を想定外とせず警告を鳴らし、人々にその危険を知らしめようとするが、奇人扱いをされる。
 第一部は沈み行く日本列島から逃げ延びた人々、逃げ遅れ海の底に沈んだ人々を空前のスケールで描く。
 そして言いたいのは、このように「日本人が日本人でなくなる」こと起こりうるのは、単なる自然現象によるものだけではなく、経済的、政治的、戦争、テロ、事故などの人為的な原因によっても、起こりうることである。世界中カオスと化している。何が起こって不思議ではない時代に生きている。我々は!
 この「日本沈没」は非情で非常な現実性と導きを我々に示唆するSF小説である。これは、SFではない。Non Fictionだ。
 そして、そこから、真摯に現実を見つめる姿をくみ取ることが出来れば、日本にもまだ救いがある。


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