明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト

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世の中、最近ほんとに難しい。ニュースを見ていても、心が温かくなるようなものは何もない。なんか世の中殺伐としてる。
 みんなくだらない番組を見て、憂さを晴らしてる感じですな。「騙されたら、あきません!」勉強せなあきません。
「明日が見えるサプリな電子本や書籍のおすすめサイト」では、皆さんにとって、元気の出る、明日が見える、あなたのサプリになるような本を紹介します。
忙しいが、毎日が疲れているあなたがちょっとでも元気になればという思いです。

カテゴリ: 電子書籍・電子出版

 「獄中記」(佐藤 優著、岩波書店)
 この著作「獄中記」は、権力の中にいた人間が、「いかに権力が権力の敵を作り出し、それを葬り去るか」の手法を暴き、又自らその権力と闘い、そして権力を如何に護るべきかを綴った稀有の書である。権力の中にいた人間が権力闘争に敗れ、野に下り、権力と闘い、自分の正統性を述べた書物はある意味かなり多い。しかし、この「獄中記」のように、自らの正当性を声高に主張せず、権力がとり得るであろう手法を分析し、権力闘争の中で、彼が護るべき権力は何か、又彼が闘うべき権力は何かを冷静に見つめた著作はこの「獄中記」をおいて他は、そうざらにはない。その意味でこの「獄中記」は誰もが読むに値する著作であろう。
 著者は、元は外交官であった。それが鈴木宗男代議士とタッグを組んで、ロシア外交に取り組んでいたが、政府の謀略に陥れられ(彼によれば)、投獄される。この「獄中記」は佐藤氏の獄中での闘いを綴った512日に及ぶ日記(記録)である。
 佐藤氏がいかなる人物であるか、この本を読むまでは知らなかったし、彼が陥れられた事件がいかなるものであったかは知らない。しかし、この本からだけの受けた感想を言うと、彼を陥れた検察、国家権力はおそらく彼に対しては、及び腰であったのではないかと思われる。
 佐藤氏はずいぶん辣腕の男であったようである。おそらくかなり多くのハイレベルな知人、友人がいたであろうことは想像できる。 人のつながりは恐ろしいところがあり、特に佐藤氏の場合は、外国の高官ともつながりがあるわけで、その辺については、検察にとってもブラックボックスで、恐ろしいところだったであろう。
 立件はしたけれど、余り深く突っ込むわけにはいかず、問題の本質の入り口辺りを軽く撫でた程度で済ましたのではなかろうか。(「獄中記」の中では、匂いだけは残っている。)佐藤氏の方もその当たりはよくわかっているので、適当に検察のために落としどころをこしらえ、自分で投獄劇の脚本を作り上げた感じがある。但し検察の阿吽の呼吸の共同作業で・・。何も分かっていない人間がこういうことを言うのはおこがましいが・・。
 私は著者は「獄中記」の中で、まだ決して本音を語っていないと思うし語る必要もないだろう。彼は護るべきものを残しながら、何時それを出すべきかのチャンスを狙っているように思う。案外、それを明らかにする時は、日本が本当に危機に瀕した時なのかもしれない。そんな気がする。何かを期待させるものを持っている。それが例え遅すぎたとしても!
 「獄中記」の中で、彼が自ら言うように、佐藤氏は保守的な人間である。野にあってシュプレヒコールする人間ではない。人々を組織し、大衆を導く指導者のタイプでもなかった。私は思うに、彼の思いは権力の中にあって、権力を動かし、政治を行う、或いはその補佐を行うことにあったのではなかろうか。それも、指導者ではなく、参謀として。私は、彼のマキャバリズム的な発想にある種の怖さを見た。そう考えると、彼が失脚することで、自らをリセットし直す機会を得たのは、長い目で見るとむしろ彼にとって幸せであったのではなかろうか。
 最後に、「獄中記」たった1作を読んだだけで、あれこれ分かった風なことを書いて申し訳ないが、これから慌てずに勉強させていただきたい。ただ私に残された時間は、そんなに多くないので、彼に願うのは「余り多くを語らず。要所要所でぐっと全体に響くことを言っていただきたい」というのが本音だ。身勝手なのは分かっているが・・。
         

 つい先日インターネットで面白い投稿を見た。それは、Wiredというサイトで、「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」とTitleの投稿で、私も常々同じような疑問を持っていたので早速拝見させていただいた。曰く、
 「電子書籍には、紙の本にはかなわない(少なくとも、簡単にはかなわない)側面が、まだいくつかある。逆にいえば、以下の5つの問題が解決されさえすれば、電子書籍は制限なく成長していくことだろう」というものであった。その5つの問題とはいったいなんだろう。投稿の著者はその5つの問題を下記の通りとしている。
1) 読了へのプレッシャーがない。
2) 購入した本を1カ所にまとめられない。
3) 思考を助ける「余白への書き込み」ができない。
4) 位置づけとしては使い捨てなのに、価格がそうなっていない。
5) インテリア・デザインにならない。
 確かにどれもこれも理由としてうなずけるものばかりで、また自分に照らしても思い当たる節があるものばかりである。
 タブレットやパソコンに何百冊、何千冊入っておろうと、それでもってかさばる訳ではない。つまり片付かないとか、目ざわりということがない。つまりタブレットやスマホの中に図書館を持って歩いているようなもので、これはタブレットやスマホの裏を返せば利点でもある。
しかしよくよく考えてみると、人間一人が図書館の本を全て読めるわけでもないし、その必要もない。ましてや図書館を持って歩く必要などどこにもないわけだ。 さて本題だが、
 1)については、要は読む側がその本をどこまで必要としているかにかかっている。もしさほど必要なければ、いくら紙の本といえども「積ん読」になってしまう。
 2)については、本の整理がつかないということである。本は目に見えるわけでもないし、物理的に整理できるわけではない。この実に目に訴えないということはややこしい問題を引き起こす。つまり目に見えていないので抽象的になる。
 3)はこれまた由々しい問題なのである。余白に書き込めるということは頭の整理にもなる、内容の確認にもなる。確かに本を読む側からすると少し不便。ノートを取るなど回避策はあるが、ノートとタブレットの2つ管理しなければならない。
4)、5)は本質的な問題ではない。  以上のことをまとめると紙であろうとデジタル情報であろうとさしたる差異はないということになる。

 しかし、それでも私は決定的な違いがあると思う。それは「存在感」である。
 本や紙であれば、そこにどんな情報があるか分かる。しかし一方、タブレットやスマホなら現物があるのは見えるがどんな情報かは分からない。
 本や紙なら1ペ-ジを読み終わっても隣のページがまだ視野の中にあったりする。ところがデジタルな情報であれば連続性はなく、ページをめくると完全に視野から消えてなくなる。これは読む側にとっては大問題となる。  以上から、じっくりと考察しながら、吟味して読むものはやはり紙の方がいい。だが、マンガやライトノベルのようなものは電子書籍が向いていると思うのだが。

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